チャップリンの素顔、キャラクター「小さな放浪者」が明かす
チャーリー・チャップリンのトレードマークは、ちょび髭、山高帽にステッキ、がに股歩き。この特徴あるキャラクター「小さな放浪者」が誕生して、今年は100年。世界中で記念行事が開催される中、チャップリンが晩年を過ごしたスイスでは、ローザンヌ・エリゼ写真美術館が、彼の新たな側面に光を当てながら、その生きた時代も感じ取れような大規模な展覧会を開催している。
1914年、当時ある米映画製作会社と契約を結んだばかりの25歳の英国人喜劇役者は、だぶだぶのズボンと上半身にくっついたような上着を衣装部屋から引っ張り出し、頭に山高帽をかぶり、手にステッキを持った。もちろん口元には垂直のちょび髭をつけていた。これは、サイレント映画の時代でもカメラが唇の動きを読み取る妨げにはならなかった。
こうして、サイレント映画史上で最も長く愛されることになるキャラクター「小さな放浪者」が誕生した。
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二つの世界大戦
チャップリンを一夜にして大スターにした「小さな放浪者」が生まれたのは、第1次世界大戦が勃発した頃のことだ。米国の映画産業を後ろ盾に、チャップリンは次から次へと新しい娯楽映画に出演。その一方で、祖国英国は大戦へと突入した。
祖国へ戻って同胞とともに戦争に参加しないチャップリンは、世間から激しい非難を浴びた。第2次世界大戦のときも同様の批判を受けた。
エリゼ美術館で開催中の特別展示「Chaplin, between war and peace外部リンク(チャップリン、戦争と平和のはざまで)」では「こうした非難に対する彼なりの答えを再確認しようとした」と、同館チャップリン・フォトグラフィック・アーカイブ外部リンクのキュレーター、キャロル・サンドリンさんは話す。
チャップリン・アーカイブ
エリゼ美術館では、写真原版のほか、極めて保存状態の良い貴重な資料も見ることができる。これらは通常、同館のアーカイブに保管されているもので、その一部はチャップリンの兄シドニーと義弟ウィーラー・ドライデンが長年にわたって、細心の注意を払って収集してきたものだ。「彼らは最初からチャップリンは歴史に残る人物になると感じていた」とサンドリンさんは言う。
イタリアのボローニャにあるチネテカ・ディ・ボローニャは、チャップリン・プロジェクト外部リンクを立ち上げ、10年以上にも渡ってチャップリンに関する資料をスキャンし、目録化した。こうして完成したアーカイブのうち紙の資料は現在スイスのモントルー公文書館外部リンクで保管されている。一方、2万枚におよぶ写真は2011年以降、エリゼ美術館が保管している。
「チャップリンの成功の鍵は、喜劇と社会批判をうまく融合させた彼の才能にある。上流社会や資本主義を堂々と批判し、独裁者を嘲笑することも臆さなかった」とサンドリンさんは指摘する。「彼がやってきたことは全て現実に基づいている。だからこそ、人々の心に強く訴えるのだ」。しかし、こうしたチャップリンのやり方は、彼が米国政府から共産主義者と批判される原因でもあった。
エリゼ美術館の展覧会は、チャップリンが自身のスタジオを立ち上げた1918年から1940年に焦点を当てている。この展覧会では、チャップリンは戦争の悲劇に対して決して無関心ではなく、独自の手段で反戦を訴えた活動家だったと紹介されている。
「小さな放浪者」が誕生したのは、チャップリンがキーストン・フィルム・スタジオに雇われたばかりの1914年のことだった。それからちょうど100年目にあたる今年、エリゼ美術館はサンドリンさんがチャップリン・フォトグラフィック・アーカイブで見つけたユニークな資料を完璧に復元したレプリカを、他社と共同出版することにした。
「キーストン・アルバム(The Keystone Album)」と名付けられたこのレプリカは、1914年にチャップリンが出演した短編映画36本のうち29本からのスチール写真を複製したものだ。英国映画協会(BFI)が、当時非公式で悪品質のコピーが急増し始めたことを危惧して、本物のチャップリン映画を守るために70年以上前に編集したものだ。
このアルバムを見ると、チャップリンの仕事ぶりがいかに熱狂的であったかがわかる。また、チャップリンが普遍のアイドルになるきっかけとなった、「小さな放浪者」という全く新しい、独特で癖のあるキャラクターの誕生の秘密を垣間見ることができる。
小さな放浪者誕生100周年
チャップリンの版権を管理するチャップリン協会(The Association Chaplin)のケイト・ギュヨンバークさんは、彼の衰えることのない人気の理由をこう説明する。「小さな放浪者は、ぼろを着て、いたずら好きで、元気いっぱいな映画上のキャラクターだった。だが時間とともに、チャップリン自身の人間性、ユーモアそしてモダニズムを象徴するようになった」
チャップリン協会に入って久しいギュヨンバークさんだが、今年各地で開催されている記念イベントのおかげで、チャップリンの人となりだけではなく、彼の仕事に対する姿勢に理解を深めることができたと言う。
チャップリンの熱狂的な仕事ぶりや徹底した完璧主義は、貧しくつらい幼少時代に起因しているとギュヨンバークさんは確信している。母親は精神的に不安定で、チャップリンと兄シドニーの世話ができる状態ではなく、チャップリンが10歳のときには父親が亡くなった。そのため、彼は自力で生きていくことを余儀なくされたのだった。
「チャップリンは生き残るために甲冑をまとわなければならなかった。それでも、仕事にのまれて自分を見失うことはなかった。常に完璧を目指して戦ってはいたが、それは彼が心の底から望んでやったことだった」(ギュヨンバークさん)
政治参加への関心
ギュヨンバークさんによると、チャップリンはトーキー映画が導入された時、映画をあきらめかけたという。「彼の名を世界に知らしめたのはサイレント映画の小さな放浪者であり、小さな放浪者がしゃべるなどありえないことだった」
チャップリンが「街の灯」の制作を開始したのは、トーキー映画が制作された1年後の1928年のことだったが、彼はサイレント映画に固執した。しかし、映画の宣伝で世界各地を巡業する間に、小さな放浪者の将来を憂うチャップリンは新たなチャレンジを見いだすことになる。
「チャーリーは何事においても真面目すぎる。もう少し気楽な気持ちでいてくれたら良かったのに」と兄シドニーは書いている。そしてこう続けている。「彼はちょうど今、ドイツの戦争賠償金問題に関する記事を執筆している。彼の提案する解決策は驚くほどシンプルで、なぜ今まで誰も思いつかなかったのか不思議なくらいだ」
ギュヨンバークさんは、その頃のチャップリンは真剣に政治の道に進もうとしていたのではないかと考えている。1931年の英紙デイリー・テレグラフに掲載されたチャップリンのインタビュー記事の切り抜きに、こう書かれているからだ。「私が何よりもやりたいことは、国会議員に立候補することだ」
最終的に、チャップリンはハリウッド復活を果たし、そのおかげで米女優ポーレット・ゴダードのキャリアが開けたのだと一般的には信じられているが、ギュヨンバークさんの印象はそれとは逆だ。「明るく活発なゴダードがチャップリンを映画の世界に呼び戻したのだ」。そして、チャップリンはトーキー映画の制作に踏み切る。
「どこへ行っても、チャップリンはいた。それは今も変わらない」。ギュヨンバークさんがそう話すように、小さな放浪者誕生100周年を祝う100以上ものイベントが世界中で開催されている。同様に、生オーケストラを伴う映画の上映もあちこちで行われている。
米国からスイスへ
チャールズ・スペンサー・チャップリン(1889~1977)はロンドンに生まれ、すでに幼いころからミュージック・ホールの舞台に立っていた。米国を巡業中だった1913年、翌年撮影される映画へのオファーを受けた。それはチャップリンの初出演映画となった。チャップリンはその後、世界中の人気者となり、次から次へとヒット作を生み続け、1917年までにはハリウッドに自身のスタジオを持てるほどになっていた。そのスタジオでは、政治情勢によって米国への再入国が拒否される1952年まで映画の制作が行われた。その後、チャップリンは米国へは戻らず、家族とともにスイスへ移り住んだ。
チャップリンは、自身が出演した長編映画のほとんどを自ら出資、制作しただけでなく、脚本、俳優、監督そして作曲までこなした数少ない俳優の一人だった。
チャップリンがスイスで家族と過ごしたヴヴェイの旧邸宅「マノワール・ド・バン」は改装され、2016年にチャップリン博物館がオープンする予定だ。
また、チャップリン・アーカイブの大型版が2015年1月に独出版社タッシェンより出版される予定。
チャップリンの公認伝記作家、デイヴィッド・ロビンソンによる「The World of Limelight(ライムライトの世界)」は今年2月に発表された。
(英語からの翻訳・徳田貴子、編集・スイスインフォ)
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