廃炉作業が進む福島第一原子力発電所の1、2号機
Keystone / Kimimasa Mayama
東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故から3月で12年が経つ。故郷の福島を離れ欧州で避難生活を続ける女性が、ジュネーブの国連人権理事会で原発事故被害者の救済を訴え続けている。
このコンテンツが公開されたのは、
2023/03/11 08:00
編集部注:本人の希望により、ファーストネームや居住地などの個人情報は伏せました。
3月11日が近付くと、園田さんは気持ちが不安定になる。頭の中に、あの日の光景がフラッシュバックするからだ。「(事故が起きた)原発から閃光がいっぱい飛んでいる映像を鮮明に覚えている。あの時はとても不安だった。本当に大丈夫なのか、一体どうしたらいいんだろうか、と」
2011年3月11日午後2時46分。マグニチュード9.0の地震が、福島県内の田園地帯に夫と子供と暮らす園田さんの人生を一変させた。
強い揺れを感じ、園田さんはとっさにテーブルの下に隠れたが、そのテーブルが部屋の隅から隅へと激しく動く。揺れは何分間も続いた。「普通の地震じゃない」と感じた。
その後も余震は絶え間なく続く。地震の翌日、津波で損壊した福島第一原発1号機が爆発するのをテレビで見た。逃げた方がいいと確信したのは、3号機が水素爆発を起こしたときだ。夫と子供と西日本に逃れた。それ以来、福島には友人や親族に会いに、一度しか戻っていない。
2014年、園田さんは親族の住む欧州に移住した。
故郷を離れて
園田さんは今月13日、ジュネーブの国連人権理事会で行われる、適切な住居を得る権利に関するディベートに参加する。園田さんは2017年、国連人権理事会のUPR(普遍的・定期的審査)のプレセッションで福島避難者の人権侵害を訴えるスピーチをして以来、毎年ジュネーブに足を運ぶ。
園田さんが住んでいたところは、国が避難を命じた原発から半径20キロメートル圏内には含まれなかった。自主避難者が受けられる公的な財政支援は、住宅の無償提供だけだった。
園田さん一家は西日本の自治体が避難者向けに無償提供する公営住宅に住んだ。だが共益費や駐車場代は自己負担だ。夫は結局、新しい働き口が見つからず、園田さんが契約社員の仕事で家計を支えた。「全く知らない土地で暮らしを立て直すのは大変だった」と園田さんは話す。
ただ、その住宅支援すら政府は2017年3月末で打ち切った。行き場がなくそのまま住み続ける避難者を追い出すために、自治体が避難者を訴えるケースも出てきた。
「国は私たちを助ける気などない」と園田さんは感じた。
そんなとき、園田さんはグリーンピース・ジャパンの協力のもと、2017年に国連人権理事会で行われた日本の人権状況に関するUPRのプレセッションで、7分間のスピーチをする機会を得た。UPRは4年に一度、国連加盟国(193カ国)全ての国を普遍的に審査する枠組みだ。プレセッションでは通常、 NGOが各国政府代表部にプレゼンテーションを行う。被害者本人が直接発言するのは異例のことだったと園田さんは話す。
園田さんは、多くの避難者が政府からの十分な支援を受けられず経済的に困窮していることを伝えた。さらに、住宅支援を打ち切った上、放射線汚染が残る土地に戻るよう避難者に圧力をかける政府のやり方は深刻な人権侵害だと訴えた。
2018年3月に採択された勧告は園田さんの訴えが反映され、日本政府に補償と住宅支援の継続、そして避難者への医療支援強化を求める内容だった。
2017年、政府の住宅支援が打ち切られたとき、園田さんは一通の手紙を受け取った。福島の自宅に戻るなら5万円の引っ越し補助代を出すという自治体からの通知だった。帰る気にはなれなかった。
「放射線に汚染された土地に本当は戻りたくないのに、経済的に避難生活を続けられないから仕方なく戻った人も多い」と園田さんは話す。
福島県の公式統計によれば、原発事故が発生した直後、約16万4千人が住み慣れた自宅を離れた。今も2万7789人が避難生活を送る。
園田さんら福島からの避難民は2013年、国と東京電力に損害賠償を求める集団訴訟を起こした。国内の複数の地域で、同様の訴訟が起こった。
最高裁はこれまで東電の賠償責任は認めたが、国の責任は認めていない。東電は今年1月、自主的避難対象区域23市町村の住民に対し、追加で一人当たり8万円、既に支払い済みの金額と合わせて計20万円の賠償金を支払うと発表した。だが園田さんが住んでいたところは対象地域に含まれていない。
「避難も賠償も最小限にとどめ、健康被害はないと強調する日本政府のやり方が、今後どこかの国で原発事故が起こったときに適用されるようなモデルになってはいけない」と園田さんは話す。
フクシマの教訓
欧州諸国をはじめとする先進国は原発事故後、こぞって脱原発に舵を切った。スイスも脱原発と再生可能エネルギーの推進を掲げた「エネルギー戦略2050」を策定し、2017年の国民投票で可決された。
だがその教訓も、気候変動対策やロシアのウクライナ侵攻によって薄れつつある。
フランスは2021年11月、温暖化ガス排出量の実質ゼロ達成に必要だとして従来の方針を転換し、原発建設を再開すると発表。ドイツは2022年末に脱原発を完了する予定だったが、ロシアからの天然ガス安定供給が停止したため、国内にある原発3基の運転延長を決めた。ベルギーも既存原発2基の稼働期間を10年延長する方針だ。
世界原子力協会の2022年報告書によれば、運転可能な原発は世界に431基あり、58基が建設中だ。スイスでは世界最古のベツナウ第1原発を含む4基が稼働する。園田さんは「どんなに技術が進んだ国でも、原発の事故が起こるリスクはある」と話す。「それは福島が身をもって証明したことだ」
将来への責任
国連のUPRが出した2012年、2017年、2022年の3度の勧告ではいずれも、福島の避難者に対する支援改善を日本政府に呼びかけている。2022年には国連の国内避難民人権特別報告者、セシーリア・ヒメネス・ダマリー氏が日本で現地調査を実施。調査後、東京で開かれた記者会見で、日本政府は自主避難か強制避難かを区別せず、人権とニーズに基づいた支援を避難者に提供すべきだと語った。
国連の勧告には法的拘束力はない。だが「日本政府の対応を変えるためには、国際的な圧力が必要。UPRのようなツールはどんどん活用していかないといけない」と園田さんは話す。ヒメネス・ダマリー氏の来日後、被災者の間でも人権そのものについてや、人権理事会の勧告をどう活用すべきかを学ぶ勉強会や講演会が開かれるようになった。
震災の話をするのはつらい、と園田さんは言う。だがこれ以上、悲惨な事故が起きてほしくないと願う。「だから、原発事故の被害者として、これからも声を上げ続けていく。将来の世代のために。その責任が私にはある」
編集: Virginie Mangin
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福島で震災が起きてまもなく6年。震災後の福島の様子を伝えようとするスイス人がいる。ジュネーブに住むマチュー・ベルトさんとジャン・パトリック・ディ・シルベストロさん。津波被害のあった海岸地区に未だに残る荒廃した光景や、福島第一原発事故により避難指示のあった町村へ帰還した人々の「生きる姿」を、イラストと写真を交えた「波の後―福島周辺」と題する本に映し出して海外に伝える。
福島では政府が提案していた避難指示が次第に解除され、帰還困難区域における復興政策が推し進められる。そんな中、イラストレーターのベルトさんは福島第一原発から15キロ圏内の立ち入り禁止区域に入り、「普通なら誰も行かない場所」での光景を白黒で、質朴な線で「事態の重大さ」を表現する。そして、一緒に報道の旅をした写真家のディ・シルベストロさんは、震災の跡をたどり、写真家にとって「誇張することのない現実」をカラー写真で紹介する。2人は『波の後―福島周辺』で、廃墟と化した町並みと共に避難解除によって帰還した住民がそこで「生きる姿」を紹介する。
まず目を奪われるのは、2014年3月に南相馬市小高区で撮った津波の威力を見せつけられる写真。津波によって三角形の防波堤のコンクリートが内陸3キロメートルのところまで打ち上げられている。この地域では、「ただ冷たい突風が吹いていて、壊れた家を吹き抜ける風の音が響き、たまにカラスの鳴き声があった。それ以外には何も無かった」と振り返って話す。そして、この放射能で汚染された地域で、ボランティア活動でゴミを拾う高齢者の方々に出会った。「荒廃した土地で一生懸命に掃除をするハノイさんという80代の女性に会った。『この土地で再び耕作することができるよう、後世代のために』と言って、何千年もかかるであろう無意味とも言える努力をしていた」とディ・シルベストロさんは語る。「しかし、この女性には普遍の笑顔があり、尊厳を感じた」とベルトさんが付け加える。
さらに2人は、「たとえ健康被害への危険性が高くても、将来への希望を持って、悲劇の後に再編成しようとする人々の日常生活」を描写する。当時、小高町で唯一開いていたという店での写真は、90歳近い女性が、客のいない店を清掃している。「店を閉じていてもしょうがないでしょ。生活が人生をもたらすのよ」と語ったのが印象的だったともディ・シルベストロさんは話す。
陸前高田でのイラストは、父親が赤ちゃんを抱きかかえ、母親が子供の手を引いて道路を渡ろうとする家族で、一見すると普通の日常の風景。だが、ベルトさんによると、背景にある海辺のカフェは震災の津波で完全に損壊したが、再び同じ場所に同じように再建されたもので、若い家族のシーンからは「生を感じて」描いたのだという。「イラストなので、角度を変えて時間をかけて何枚も撮る写真とは違って、さっとその場で感じたものを瞬時に描くことができた」
この報道をするため、何日間も「低放射能といわれる時期」を避難地区で過ごしたという2人。「危険でないとは言えない思う」と明かす。「低放射能を浴びるということで、今は健康被害がないかもしれない。でも、次世代への影響は分からない。分からないからこそ、危険だと思っている」と言う。
「この本は、人類がこれから先に抱えていく『課題の始まりの一つ』をちょっと報告するだけーー」
1969年にはスイスでもヴォー州リュサンの原子炉研究所で放射物質漏れが起きたことを忘れないで欲しい、と写真家は願いを込める。
『波の後―福島周辺』(Notari社出版)
ジュネーブ在住のマチュー・ベルトさんとジャン・パトリック・ディ・シルベストロさんが、震災後のフクシマの様子を白黒のイラストとカラー写真で伝える。ディ・シルベストロさんは、2013年3月から定期的に被災地を訪れているが、撮影は2014年3月にベルトさんと一緒に報道の旅をした時のもの。この本は、3月1日よりスイス仏語圏の書店で販売されているが、4月29、30日にジュネーブで開催されるブックフェアで紹介される。来月からはフランスを始め、カナダやベルギーの書店でも販売される予定。*3月11日には「波の後―福島周辺」に掲載されている写真とイラストの一部をギャラリーで、10カ国語にてご紹介します。
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